14 Til I Die

消されるな、この想い

死ぬも生きるも弥勒菩薩の手の上

本稿は、id:p_shirokuma氏のエントリ
「ネットがつまらない」≒「自分がつまらない」 - シロクマの屑籠
に対するid:TM2501氏のエントリ
ネットがつまらないなら、ネットをさわる時間を短くしたらいい - とある青二才の斜方前進
を読んで思った事を簡単にまとめた物となります。
さて、id:p_shirokuma氏の主張は実際にリンク先を読んでいただくと分かる事ですが、以下の件に集約されていると思います。

インターネットはどこまでも自己選択なメディアであり、自己責任なメディアでもある。「面白いものが観たければ自分で面白いものを探せ。面白くないインターネットなら、面白い場所やアカウントがみつかるまでネットサーフィンしてみろ」

これに対してid:TM2501氏は「どうしても賛同できない」と前置きした上で以下のような主張で「反論」しています。

ネットがつまらないのはネットを楽しみぬく知識と経験がないからだと僕は思う。そのために、ネットを触る時間を短くしたらいい。SNSやブログは今やあらゆるサイトで共有されているのだから、ネットを触る時間が減っても、トレンドを見逃すことはない。むしろ、ネットウォッチばかりでは時間がダボつく。

だから、ネット以外の時間を大事にすべきなんだ。よりネットに触れる時間を充実したければ、本を読むべきだし、テレビを見るべきだし、面白いことに出くわすために仕事でも遊びでも勉強でも、外に出て楽しむべきなんだ。それはブログや創作はもちろん、単なるネットサーフィンでも同じこと。

……なんだかね、釈迦の手の平の上で息巻く孫悟空を見た気分というか。
id:p_shirokuma氏は次のような主張もされています。

 そしてインターネットの自由度が高いからこそ、その人のインターネットの楽しさや豊かさは、その人自身を反映したものになる。自分が何を観るのか?どのように観るのか?そして誰と言葉を交わすのか?すべてが自分の意志に委ねられ、一人でディスプレイと向き合っている時に何者にも干渉されないからこそ、インターネットはその人自身を映す鏡となる。だから、インターネットがつまらないと言って憚らない人は、鏡にうつった自画像に向かってつまらないと言って憚らないのも同義だと思う。

新たな面白さを求めて観測対象を変えるという事は、新たな分野へのリテラシーを磨く事とセットでなければ意味がありません。いくらヲチ対象を変えた所で自分自身が全く変わらないのであれば、結局見えるものは変わらず、観測対象を変えたことで得られる筈だった沢山のピースは手からすり抜けていくばかりです。
それは至極当たり前の事ですし、リテラシーというものはそもそもネットだけで完結するものではなくその人が今までどんなものを見、聞いてきたか、それらに対してどう感じたか、そしてどう考えるのか? というまさしく人となりを表すものです。ですから、観測対象を変えたけど新しい発見が無い・つまらないと公言する事は、つまるところその人が自らのリテラシー不足もしくはリテラシーを磨く気がない事を公言するのと同義な訳です。
だから、id:p_shirokuma氏は

インターネットがつまらないと言って憚らない人は、鏡にうつった自画像に向かってつまらないと言って憚らないのも同義だと思う。

と「軽々しく『インターネットがつまらない』なんて言うなよ! 絶対言うなよ!」と繰り返し述べているのだと思うのですが。


そしてid:TM2501氏がid:p_shirokuma氏へ「反論」する光景を眺めて「おおっとシロクマさんの誘い受けに青二才氏がたまらず襲い掛かったぁ!!」とやおい妄想を働かせた私は本当にインターネットライフをエンジョイしすぎだと思った。