14 Til I Die

消されるな、この想い

紙の感触

サイト上で長年文章を書き続けている人間としては矛盾しているのかもしれないが、私は文章は紙の媒体で読む事こそを好む。
 既に名作近代文学などは、青空文庫等のように無料でダウンロードしてPC上で読む事が出来る物も少なくない。 またディスプレイ技術も発達してきていて、紙同然の厚さしかない表示装置も開発が進んでいるそうなので、本同然の感覚で電子書籍を読める日もそう遠くないだろう。
 けれども、そういった技術が実用化され、また商品化されたとしても、「自分は紙の媒体に拘ってしまうのではないか」と思う。 これはもう、理性だとか利便性だとかの問題ではなく、単純に感情の問題なのだろう。
 表示装置上の像は、結局は全て虚像。だが、紙の媒体には、ページを捲る感触があり、インクの匂いがある。大袈裟に言えば、実在を感じる。 眼だけではなく、指先で、あらゆる感覚器官を使って「読む」のだ。
 私にとって「文章を読む」という事は、自己の存在確認と関連しているのかもしれない。
 等と気取った事を書いているが、では私にとってPC上――特にネット上――で読む文章は、紙媒体のそれと比べるべくもなく無価値なのかといえば、決してそういうわけではない。
 「どちらをより好むか」といった場合に、私にとって紙の媒体が圧倒的なだけであって、ネット上の文章にもそれなりの愛着があるし、利便性を感じている。
 ニュースなどのように、書かれた情報それ自体や速報性が重要なものは、やはりネット上の方が優れているし、便利でもある。 事実、私が購読する各種情報誌の数は、ここ数年で激減している(新聞だけは手放せませんが)。
 また、そこに筆者の姿が滲み出ている文章を探し読む、という点ではやはりネットは便利極まりない。 文章力という点では、やはりプロの作家や随筆家には見劣りするのかもしれないが、日記なり評論なりネタなり創作なり、 直接的あるいは自然に滲み出る形で筆者のエロスを感じさせる文章という意味においては、ネット上のそれらは決して劣っていないと思う。
 むしろ、紙の媒体の時に存在する「絶対的な筆者との隔たり」が、ネット上のそれでは希薄であるために、より筆者の人格に肉薄できる、という見方もあるかもしれない。

 ただ、ネット上の文章の旬というのは、大概の場合刹那とも言える短い期間であることが多い。 それは多くの場合、文章それ自体が飽きられるのが早いからではなく、次々と新しい文章が誕生していく事に起因している。 そういった流れの早さに一度置いていかれると、追いつく事が困難である、というのはネット上の文章の一つの欠点だと思う。
 だから、私が以前参加していたテキコンのように、多数の参加者が「限られたテキスト数、限られた期間」の連続によって構成するようなイベントというのは、 その欠点をある程度埋めることが出来ていたのじゃないかと思う。少なくとも、そのイベントが終了するまでは、過去ログ――それもあまり膨大ではない――を追う事で、 流れに追いつく事さえ可能だった筈だ。
 もちろん、実際にはどんなテキスト系イベントサイトも主流足り得なかった(というか、どこが主流か定義すら出来ない)訳だから、あくまで限定的ではあったのだけれども。 それでも、幾許かの有用性はあったはずだ。(後略)

※初稿:2003年10月14日。