14 Til I Die

消されるな、この想い

加熱する「正義感」がもたらすもの

少し前に、川崎の中学一年生殺害事件において主犯とされる容疑者の少年の実名や顔写真、果ては家族の写真や自宅の場所などがネット上に大量に投稿・拡散される、という出来事があった。言ってみればWebを利用した「私刑」そのものだが、恐ろしいのは「炎上」を煽る愉快犯の類に混じって、「正義」を掲げてそれら行為に加担している連中がいる事だ。
曰く「被害者は赤裸々に私生活を暴かれ報道されているのに、加害者の情報が隠されるのは不公平」、曰く「凶悪犯罪者に更生の余地なんてないのだから社会的に抹殺するべき」、曰く「凶行を止められなかった、そんな風に育ててしまった家族も同罪」。
まるで、司法が手ぬるいから自分達が罰を下すのだ、という神気取りの、吐き気すら催す下卑た行為だが、程度の差こそあれ、多くの人にはこのような「加熱する正義感」という名の熱に浮かされた経験があるのではないだろうか?

例えば、Twitterである発言が「炎上」してたとして、ついついそれをリツイートしてしまったり、まとめサイトの悪意ある記事をブックマークしてしまったり、酷い時には返信機能で直接突撃したり。「問題発言」に集中砲火を浴びせる流れに身を任せてしまう、もしくはその逆に、本人を置いてけぼりにして「擁護」を自称し、批判者達に反撃してしまう、そんな経験が。*1

もちろん、冷静に「我関せず」を貫いて事態の拡散に加担しない人々も多い。しかしながら、叩きやすい、分かりやすい「悪」に出会ってしまった時、「正義感の充足」という名の甘い汁を吸う為に騒ぎに加担してしまう弱さは、恐らく大概の人間が持ち合わせているもので、決して他人事では済まされない。
加えて厄介なのが、批判や否定、賛意、自分なりの考えなどの意見表明も容易く「攻撃」に繋がってしまう事。ある出来事に対し、自分なりの意見を述べる事は人間としてごくごく自然な行動だが、賛意を得た事で段々と声が大きくなってしまったり、または、その「意見」を見咎めた第三者の「攻撃」に対する「反論」により、あれよあれよという間に「炎上」に至ってしまう事例もまま見られる。*2



さて、以下はとても個人的な、一対一という本当に小さな規模での「炎上」の話。

数年前に、とある漫画評論家の方が、国際的にも大人気の超有名漫画――仮に「海賊王(仮)」とする――に対して「つまらない」と公言した記事が話題になった。普段はきちんと「評論」を書いている方だったので「おや?」と思ったものだったが、中身を読んでみれば何のことはない、作品の方向性と自分の好みの違いを照らし合わせて分析したものであって「作品批判」ではなかった。むしろその作品を深く理解し、その上で「自分が求めているものとは違う=自分にはつまらない」というを書いている、ある種作品への敬意を失っていない「批判」エントリーだった。*3
ところが一部インターネット民かつ海賊王(仮)のファンである人々は、「俺らの大好きな海賊王(仮)を評論家様が偉そうに批判してるぞ! 許せん! ムキー!」と猿のように顔を真っ赤にしながら*4騒ぎだし、炎上した。
当の評論家氏にとっては予想の範囲内の反響であり、追記記事を書くという余裕ぶり。当然の事ながら、氏の普段のエントリーを読んでいた人間にとっても、「脊椎反射でしか捉えられない連中が大量に釣られてるな」位の印象しか持っておらず、私としてもそのように認識していたので、そういった意図の扇情的にならない程度のコメントを添えてはてなブックマークに追加した。
私は当時から木端ブックマーカーであったし、絡まれるほど過激な事は書いていなかったので、まあ騒動に巻き込まれるようなことはないだろうな、と思っていた。実際、はてなブックマークなどで絡まれる事はなかったのだが、「敵」は意外な所に現れた。

当時からとあるSNSはてなブックマークの連携機能をONにしていた為、ブックマークのコメントはそのままSNSの所謂「つぶやき機能」に投稿されるようになっていた。そしてそれに対してコメントが付いた。私は公開範囲を知人・友人限定していたので、つまりはコメントを寄せたのはそれなりに付き合いのあるweb知人だった。

その方(以下、「彼」とする)はとにかく興奮気味で、上記「ムキー!」の方々のようなコメントを付けてきた。それに対して私は、落ち着いて冷静になるよう促すコメントを返したが、彼の興奮はおさまらない。「件の筆者の書いている事は作品の基本思想を冷静に分析したもので、筆者はそれが自分の価値観に合わないから『つまらない』と言っているのであって、価値観がマッチしている方々のセンスを否定しているのでもなければ、自分のセンスに合わないから駄作だ、と言っている訳でもない」「筆者が何と言おうと、海賊王(仮)を面白いと思う人々の感情が否定されるわけでもないし、作品の価値が貶められる訳でもない」等と、とつとつと諭したのですけれども、むしろ彼のコメントは激化するばかり。

今思えば、私にもっと「興奮する人間を宥める術」があれば彼もあそこまで激昂しなかったのだろう。しかしその頃の私は、彼を「話が通じる人間」として認識していた。「言葉を重ねれば感情を超えて論理を理解してくれる」と純粋にも思っていたのだ。しかし、当の彼にとっては、大好きな海賊王(仮)を批判する者は全て「悪」であり、それに対し一定の理解を示す人間――つまり私――も彼の中では「悪」でしかなかった。彼のその時の行動原理は「正義感」だったのだ。私はそこを見誤った。

次第に激昂を強める彼は、遂に「評論家なんて自分達は何も生み出さないで偉そうに語るだけの害悪」などと言い出し、その言葉につい私もカチンときてしまった。元記事を読めば、筆者がいかに心を砕いて作品を分析しているか、その真摯さが窺えるはずだし、その事について自分も噛み砕いた上で海賊王(仮)の面白さを批判しないような言葉で彼に伝え続けていたのに、それを全部否定された思いだった。

そこから先は一対一でのコメントスクラムという不毛極まりない展開になってしまった。正直あまり思い出したくない。最後は、「なんでただ興味を惹かれただけのエントリーの事で、知人*5とケンカみたいな事をしなければならないんだ!」とか「批判される事を確信してエントリー投下した図太い人の『釣り』に知己が釣られているのが悲しいだけなんだ!」などと身もふたもない事を書いていたように思う。

そういったやりとりを経た後、彼との交流は途絶えてしまった。こちらからブロックはしていないし、SNSの友人登録も生きたまま。だが、彼のつぶやきも日記通知も、一切私には流れてこなくなった。私は殆ど使わないので詳しくないが、どうやら友人登録は切らないけれども自分のアクティビティは通知しない、という機能があってそれを使ったらしい。彼がSNSから離れただけなのかも、などと淡い希望を抱いた事もあったが、共通の友人のアクティビティに対し彼が反応している光景を何度か目撃し、完全に関係をシャットアウトされたのだと思い知らされた。そしてそれは現在も続いてる。


かように、ある程度親しく人となりを知っている間柄*6でも、「正義感」が原因で容易く炎上・加熱するのだ。相手の語気が一方的であればあるほど、対する側もどんどんと感情的になり、状況がエスカレート、悪化していく。

そして、上記のような教訓を得て、少しは学んだはずの私でも、やはり自分が一方的に「悪」認定されれば、ついつい感情的になって強い口調で反論してしまう事も少なからずある。時にそんな私の行動を窘めてくれる方もいるが、もしそういった方がいなければ、今度は自分が「正義感」に酔う火種であり燃料でもある存在に容易くなってしまう可能性は否定できない。

逆に、眉をひそめるような事例――特に「バカッター」などと呼ばれるTwitter上でのヤンチャな投稿の類――を見てしまうと、はてなブックマークなどの間接的な手段ではあるが、攻撃的な批判コメントを投稿してしまう事もあるという、「先手」に立ってしまうこともある。直接突撃しないだけマシかもしれないが、やっている事は本質的に何も変わらない。叩きやすい相手を、自己の正義感の充足の為に生贄の羊にする、下卑た行為だ。

「批判」や「否定」は社会的に見て必要な行為であるが、一歩間違えればそれは容易く「攻撃」になりえてしまう。本エントリーは自戒としての意味合いが強いが、もし最後まで読んでくれた方がいて、なにがしかのの教訓を得てくれれば幸い。


孫正義 リーダーのための意思決定の極意

孫正義 リーダーのための意思決定の極意

*1:当然の事ながら私自身そういった経験が少なからずある。若い頃ならなおの事。

*2:酷い時には我関せずを貫いていたのに、「詳しそう」とか「どう思う?」とかコメントを求められて巻き込まれる、何か言えばそれを材料にされる、何も答えなくてもそれをも材料にされるという悪魔の罠に嵌る事さえある

*3:当時はその作品があからさまにプッシュされている時期であり、おおよそ関係のない業界までコラボレーション企画が浸透しているという異常な状態だったため、その状況に疑問を呈し広く意見を集める為に少々過激なエントリーを投下して反応を求めた、という意図もあったらしい。

*4:ただしイメージ。

*5:むしろ私は彼の事を友人だとすら思っていたが、あえて知人と呼ぶにとどめる。

*6:親しい間柄だったからこそこじれた、という面も否定できないが。